神も仏も「ある」
神棚に神様を迎える。
仏壇に仏様を迎える。
人としてこの地球やこの世に命をいただいて生かされているならば、
神様や仏様をお迎えするのは当たり前のことです。
ですが、人間の勝手な生き方は、この当たり前を非常識なことにしてしまいました。
どんな場所でも自分の家が欲しい(所有欲)。
自分たちだけの家が欲しい(核家族化)。
昔は、山に手を合わせ、太陽に手を合わせ、水に手を合わせ。
自然というものに手を合わせていたのが日本人、神道の考え方でした。
神様は自然に宿る、自然こそが神様と言う考え方でした。
この考え方は、まさに「生かされている」という思考そのものです。
ところが仏教が日本に入ってきてから
神様というものは銅像や神殿が必要なものになってしまいました。
家には必ず仏壇を祀るようにおふれが出て、と言ってもこの仏壇の中には
大仏様などのお像を祀ることでした。
当たり前のこととして奈良時代に始まったことでした。
当たり前のことが時代を変遷して当たり前のことで無くなってしまったのはどうしてなのでしょうか?
人間が自分の意思で、自分中心の思いで生き始めたからです。
神様に対する思いも、自然に対する思いも、
先祖に対する思いも、父や母に対する思いも
薄れてしまったのです。
台風が来ようが飢饉になろうが、疫病が流行ろうが
自分たちの力で科学の力でなんとかできると、思ってしまったからです。
だから、何にもできないことがあるのだと、自然は脅威をむき出しにしてきます。
神様は祀らないといけない、
仏様は祀らないといけない、決してそうではありません。
心にきちんと神様や仏様に感謝の思いがある人、
自分を大切にして他人を大切にして生きる人には、祀る必要がない場合もあります。
残念ながら、そういう人は決して多くはありません。
現代の住宅の構造からしても
神様を祀れない家もあるし、仏様を祀れない家もあります。
「祀れない」=「祀らせてもらえない」自分の生き方に気づくべきなのです。
そこまで離れてしまった自分に気づくべきなのです。
自分の潜在意識としっかり向き合って
潜在意識にそっぽを向かれないように、
常に一緒になって行動できるような自分に戻るべきなのです。
自分が変わると、必ず仕組みが始まります。